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超訳 論語/安冨歩

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こんにちは。岡本大輔です。
昼の紹介はこちらです。
※ 再編集・再更新記事です。
↓↓↓


ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日:2012-12-14




















【出会い】
幕別町図書館札内分館で出逢いました。

【本書紹介のねらい】
~Amazonより~
ちくま新書「生きるための論語」が好評の安冨教授が旧来の解釈から論語を解き放ち、
魂に響く生き生きとした言葉でよみがえらせます。

*****

二千数百年にわたり、東アジア全体で読み継がれてきた最大の古典が「論語」だ。
現在の日本でも多くの人たちが「論語」を愛読しており、
現代語訳や注釈の書も数多く出版されている。
そのなかで本書は、著者が従来の「読み」にとらわれず、
あらためて「論語」と向き合うことで生まれた異色の超訳である。
読者はこれまでの「論語」のイメージを一新する言葉の数々に驚くに違いない。
そして心を揺さぶられ、行動を変えずにはいられないだろう。

〈本書の一部〉
「他人が自分をわかってくれない」なんてどうでもいいことだ。
「自分で自分をわかろうとしない」ことが問題なのだ。

何かを学ぶことは、危険な行為だ。
なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから。

「知っている」よりは「好む」ほうが上だ。
「好む」よりは「楽しむ」ほうが上だ。


論語を学びたいあなたへ。

【気になった抜粋】
論語では「仁」ではなく、学習回路の閉じている状態を「悪」と呼ぶ、そして君子とは逆に、学習回路が閉じている者を「小人」と呼ぶ。

何かを学ぶことは危険な行為だ、なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから、しかし、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、あるとき、ふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。

学習の悦びを知っている人は、それを知らない人を見ると、「なんてくだらないヤツだ」と思ってしまいがちだ、しかし、そういうときにも、心を乱されないでいる人が、「君子」なのだ。

君子は、常にありのままの自分自身でいなければいけない、言葉と心とが一致していなければいけない、だから、自分をごまかしているような人間を友としてはいけない。

礼というのは、形式ではない、双方が互いに心を開き、調和のとれた関係が成り立っていることを「和」と言い、その状況でとり交わされるコミュニケーションが、必然的に礼にかなったものになっているのだ。

三十歳になってようやく、学んだことを自分のものにして、自分自身の感覚を回復し、自分で立つことができるようになった。

古の人は思ったことを軽々しく言葉にしなかった、我が身のありさまがそれに追いつかないことを恥じたからた。

「知っている」よりは「好む」ほうが上だ、「好む」よりは「楽しむ」ほうが上だ。

自らの身体の教える道をひたすらに進もうと決意し、その道を自らの魂の力によって突き進み、次々と生じる事態の一つ一つから学んで成長し、必要となる知識や技芸を自由自在に駆使すべく身につける、これが大切だ。

勇者とは恐れない者のことだ、知者とは、惑って自らの進むべき道を見失うことのない者のことだ、仁者とは、自らの内からも、周囲の人の心からも、憂いをなくすことのできる者のことだ。

その身が正しければ、誰にも何も命令しなくとも、ものごとはうまくいく、その身が正しくなければ、何を命令しても、誰も従わない。

他人を批判する暇はない。

君子は矜持が高いが、他人と評価を争うことはせず、多くの仲間がいるが、徒党を組んだりはしない。

素直な友人、道理のわかる友人、もの知りの友人は有益である、うまい話を持ってくる友人、善人だが腰抜けの友人、口達者な友人は、有害である。

儀礼や音楽を楽しみとし、人の優れた点を話すのを楽しみとし、賢い友人をたくさん持つことを楽しみとするのは、有益である、好き放題の大騒ぎを楽しみとし、怠け遊ぶことを楽しみとし、酒盛りを楽しみとするのは有害だ。


【響いた抜粋と学び】
著者の安冨さんは京都大学経済学部卒業後、株式会社住友銀行勤務。京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手、名古屋大学情報文化学部助教授、東京大学大学院総合文化研究科・情報学環助教授を経て、東京大学東洋文化研究所教授です(執筆当時)。

論語とは自分自身のあり方や自分を第一に考えています。

「他人が自分を知ってくれない」なんてどうでもいいことだ、「自分で自分を知ろうとしない」ことが問題なのだ。

周りの評価を気にする前に、あなたがあなた自身をもっと知りなさいと孔子は問いかけます。あなたはあなた自身のことを考えていますか? 知っていますか? あなたの強みは何ですか? あなたの好きなことは何ですか?

「他人がどう感じるかは、君の身体の及ぶところではない。それを感じようとすると、君の感覚を他人に譲り渡すことになってしまう。それはとても危険なことだ」。

「自らの心のままに感ずるところを相手に告げて、自分が善いと考えるところに従って相手を導く。これが友だちとしてすべきことだ。しかし、そうしても聞き入れなければ、それ以上はやるべきではない。無理に自分の考えを相手に押し付けたりすると、結局は自分が傷つくことになる」。

古の学ぶ者は、自分自身のために学んだ、知識とはそういうものだ、ところが今の学ぶ者は、世のため人のために学んでいる、大変な堕落だ。


このあたりを読むと不思議な気持ちになります。論語では学びとは自分自身のためだと説きます。「世のため、人のため」……奇麗事を抜かすな! ということなのだろうか。
あなたが学ぶのはなぜですか? あなた自身が学びたいからでしょう。あなたがもっと知りたいと思ったからでしょう。大義名分よりあなた自身はどうなのか? を考えなさいということか。
親が言うから、先生が言うから、上司が言うから、社会福祉士や介護支援専門員の勉強をする、それではいけない。
あなたは何を学びどう生きたいのか? 介護業界に従事する人は孔子から問われているのかもしれません。

学習回路が開いた君子は、状況に応じて自分を新しくしていくことができる。何かを学んでも、それが何であるかを自分で考えなければ、学んだことにとらわれてしまう、とはいえ、何も学ばないで、自分で考えているばかりでは、堂々巡りして、知性が死んだようになってしまう。

仁であることは、それ自体が美しいことだ、仁でいるなら、まっすぐな分岐なき道が、きみの前に広がっているはずだからだ。

私は、仁を好む者など、見たことがない、なぜなら、仁でないものには、仁が何かわからないので、仁を求めようがないからだ。

君子は「義」すなわち「何をすべきか」をまず考える、小人は「利」すなわち「何をしたら得か」をまず考える。


仁は学習過程を開くという態度のことなのだから、私が仁でありたい、と思ったなら、それはもはや仁がここにある、ということだ。

「自分自身のありさまを、無意識を含めて反省し、目をそむけたくなるような事実を受け止め、自分のあり方を変える。このような家庭を経て、人々との調和によって礼を実現する。これが『克己復礼』だ。これができれば『仁』だ」。

論語でのキーワード……「仁」。それは何か? 僕は今まで「仁」というのは愛や誠意ととらえていました。しかし、どうやら違ったようです。

「仁」というのは学習過程を開くという態度のこと。つまり開かれた状態で目の前に来る現象を受け止めることができる状態です(これは僕の解釈)。・

「仁」は手法や方法ではありません。小手先の技術ではありません。人間としての生き方やあり方を統合したものです。

「仁」であるあなたの前には、情報化社会で無数の選択肢があるはずなのに、まっすぐな分岐なき道が広がっているはず。
あなたはそのまま進めばいい。

道が複数あり歩めないあなたはどうしたらよいのか? あなたは学習回路を開き受け入れることです。あなたのあり方が次の道を開くのです。

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