こんにちは。岡本大輔です。
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講談社
発売日 : 2006-05-19
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【出会い】
帯広図書館で出会いました……どこで出会ったのだろう、忘れてしまった。
【本書紹介のねらい】
~本書抜粋より~
今の日本は、「ともかく愛国心を持て」「愛国心は常識だ」「愛国心さえもてばいい生徒、いい日本人になれる」と言っている、冗談じゃない、そんな単純なものではない、だから、この本では初心に返って愛国心とは何か、を考えてみた、愛国心は宝石にもなるし凶器にもなる、一面だけを見るのは危険だ。
愛国者……日本は特に1945年8月15日の敗戦からGHQによる占領があり、自主憲法ではなく、占領国から押し付けられた日本国憲法を自然と守っています(当たり前に学校から習っています)。
僕たちは必然的にあの戦争は日本が悪かったと洗脳されています。自虐的に日本を見る日本人が増えてしまった中で、愛国心を持つことは、いいことではないか? 僕はそう思いましたが、愛国心は二面性がある、というのです。
愛国心について改めて考えてみましょう。
【気になった抜粋】
まず愛国は保守的であり、憂国は革新的である、愛国はともかく美点を見つけ出し賞めなくてはならない、この日本のすべてを認め、愛する、現状容認だ、これを変えるのは嫌なのだ、現状維持的であり、保守的であり、受身だ、憂国は、この国の状態を憂うるのだ、もちろんこの国は好きだし、愛情はある、しかし、これでいいのかと怒り、憂うるのだ。
憂国は暴発的な決起に結びつき、危険な連鎖のように見える、愛国は現状維持的で平和なように映る、しかし、一概にそうは言えない、憂国は、時に暴力的になり、暴発し、連鎖する、しかし、あくまでも個々人の自発的な意志に任されている。
「尊重」と「強制」は全然違う、例えば僕は日の丸・君が代は好きだし尊重している、だからこそ大事にしたいし、やたらに強制してほしくない。
企業はさらに<国家>的だ、献身を要求される、いや、企業の方が、より強い、いま、「国のため」に死ぬ人はいないが、「企業のため」に死ぬ人は多い、仕事のし過ぎで、過労死する。
【響いた抜粋と学び】
著者の鈴木邦男 - Wikipedia についてです。wikiから添付させていただきます。
~Wikipediaより~
日本 の政治活動家 、新右翼 団体「一水会 」最高顧問、プロレス 評論家 、予備校 講師 。また、格闘家としては、合気道 三段。富木流合気道から柔道に進み、柔道も三段。
ざっと経歴を見ていると先生を殴って退学したり、防衛庁に乱入して懲戒解雇されたり、激しい活動家というイメージがあります。
「愛国者」を自任する人は、家族や町、市、県からは孤立し、嫌われ、そのくせ「俺は愛国者だ」と言っている人が多い、三島の言うように、この共同体をピョンと飛び出して、国と自分が対等になって「愛している」と言っている、これでは思い上がりだし、錯覚だ。
これはその人それぞれになる気がしますが……日本を愛しているのに、周りから嫌われているのであれば、鈴木さんがおっしゃるように思い上がりだし、錯覚ですね。
介護現場でも高齢者のお客様にはいい顔をしているにもかかわらず、同じ介護者であるスタッフとはうまく人間関係が取れていない人ってたまにいるんだけど、そういう人と似ているのかな。
日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であって、「愛」ではない、もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限定無条件でなければならない、従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない、なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。三島は「愛」ではなく、「恋」でいいという、この二つはどう違うのか、僕が思うに、恋は一方的なものだ、相手がどう思っているか知らないが、一方的に思いを寄せる、人が結婚する時も愛ゆえだが、離婚する時も愛ゆえだ、「こんなに愛しているのに、応えてくれなかった」と自分の愛の大きさをでもって、相手の愛の小ささを攻撃する、また「彼女を一番愛しているのは自分だ。
彼女を幸せに出来るのは自分しかない」と思いつめる若者も多い、ストーカーも愛ゆえだ、愛は相手を縛り、拘束、時には暴力的になる。
ここは「?」でした。抜粋にある「愛」の説明はなんか腑に落ちないですね。ここでの愛の説明は「恋」の延長じゃないのかな、と思いました。
一般的に「愛」というのは母性だとかに表現される無償の愛だと思います。ここでの愛は見返りを求める愛……一方的な恋なんだと感じますがどうでしょうか。
日本の場合は、二千年以上も国家を意識しないできた、明治維新以降、「西欧に追いつき追い越せ」で、急遽、近代国家をつくったのだ、憲法をつくり、国旗・国家をつくり、愛国心を教えた、西欧列強と肩を並べるために、近代国家・国民国家にならなくてはならない、アメリカのような愛国心を取り入れる必要がある、国の成り立ちが全く違うのに、そう思った、そこに無理がある。西郷軍が強かったのは西郷という強力なカリスマがいたからだ、こちらにはない、それで急遽、天皇を前面に持ってきた、それまでは「公家の代表」で雅びな天皇を、国家の中心にし、カリスマにしようとした、国家の求心力にしようとした。天皇独裁の国だったら戦争を止められただろう、しかし立憲君主国家だから、天皇も憲法のもとだ、国会が決めたことは覆せない、マスコミだって、「戦争やるべし!」と煽った、最後のギリギリになって、天皇の聖断にすがりつくしかなかった。
皇紀2673年……現存する最古の王朝、それが日本。天皇を中心に(?)、日本は2000年以上存在していました。
強いチームは「想い」の部分でチームが一致団結し力を発揮しています。ふと思い出したのが2003年の時の阪神タイガース、星野監督のもと、
「勝ちたいんや!」
で、チームが一つになり、18年ぶりのリーグ制覇を成し遂げました。
種目は変わって、NBA、バスケットボール。1998年、マイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズは名将フィル・ジャクソンの最後の年、チーム解体の危機の中、有終の美を飾るべく空中分解寸前のチームはまとまってNBAチャンピオンに輝きます。
国旗も国家も明治維新以後につくられた、実は初めは「五つの君が代」があったという、オペラ風のものもあれば、雅楽風のものもあり、讃美歌風のものもあった。
明治維新前は、日本人に「愛国心」はなかった、国への帰属意識も一体感もなかったからだ、「くに」は日本国ではなく、藩だった。
皇紀2673年の歴史を持つ、日本は1500年代、戦国時代でした。この時代は織田信長や毛利元就、武田信玄、上杉謙信などその土地ごとに君主がいて、地域が成立していたように思えます。
日本国として一つにはなっていませんね。それが本来の日本の姿だったと思います。徳川家康の時代には各藩ごとに国が成立していました。考えてみればアメリカ合衆国の州と同じ感覚なんだと思います。
どうして、現代は中央集権になってしまったんでしょうか。身土不二といって、土地ごとに気候や食べ物など違いがあります。
そうなると人間性にも違いがあります。アメリカと日本で同じ法律を適用しないのと同じで、北海道と沖縄では気候や食文化が全然違うのです。
そのような環境の違いがある中で、同じ法律を適用するのはいかがなものでしょうか?
介護保険法にしても、豪雪地帯の北海道、台風が直撃する沖縄、それと交通網の整備された都市圏を同じ内容の法律で括っていいものなのか? というのが議題に上がります。
豪雪地帯でしかも場所によってはお客様の家まで30km離れたところに行くことだってありえる北海道において、家が集中している都市圏と同じ送迎加算なしでいいのか? これは北海道デイサービスセンター協議会事業推進委員会でよく議題にあがります。
明治維新は武士が中心になり幕府を倒した、では、武士が中心の世の中になったか、そんなことはない、刀を捨て、チョンマゲを捨て、藩まで捨て、武士という存在すべてを消滅させた、勝利者が自らを消滅させるなんて、歴史上、他にはない、「巨大な自己否定」だ。
なるほど。確かにその通りですね。武士が幕府を倒したら、普通に考えれば武士の世の中にするのが一般的ですが、明治維新では武士たちが今までの自分たちを完全否定して新しい文化を作り上げました。
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