こんにちは。岡本大輔です。
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PHP研究所
発売日 : 2013-03-17
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【出会い】
帯広図書館の新刊コーナーで出会いました。以前から気になっていたタイトルでしたが……書評更新ペースに間に合わせられない、と思ってなかなか手に取れませんでした。
今回思い切って手に取りました。
【本書紹介のねらい】
~本書抜粋より~
いじめと自殺の因果関係を認めず、調査を打ち切った市教委の対応は社会問題となった、この事件の真相、そして悩ましき、いじめの構造に迫る。
単純にいじめはよくない、やめよう、というものではなく、そこから見える人間関係の難しさや当時者たちを取り巻く環境までも考えてみましょう。
※ 介護問題に通じるところがあるはず。
【気になった抜粋】
自殺の翌日、健次の祖父母が経営する銭湯を生徒の親が訪れ、告げた、「健次君はいじめ抜かれて死んでいったんやで。知らないのは被害者の親と加害者の親、そして学校の先生だけ」。
学校は不登校に陥っている三人を授業に戻すため、指導でいじめを認めさせ、反省を引き出す必要があった、個人差はあるものの、三人とも「ちょっとやりすぎたかも」という気持ちはあると感じていた、だが、親から「いじめ前提の指導は必要ない」「冤罪だったらどうするんや」と断られ、先に進めなくなった。
新しいPTA会長は毎朝、学校の校門に立って生徒に挨拶をする、何から始めていいのかわからないが、再生のためには行動するしかない、と考えた、生徒の様子に気づくためには、チャンネルが多ければ多いほどいいと思うからだ。
「私が若かったときは職員室は生徒の話で満ちあふれていた。担任していない子のこともよく知ってましたよ。でも、いまの先生は雑用に追われて、余裕がまったくない。生徒のことを話している実感でいえば、採用された当時と辞めるときとでは10対1」。
教員の世界には「困った子は困っている子」という言葉がある、手のかかる子どもは、悩みを抱えているという意味だ、同様に「困った親は困っている親」と考えることはできないだろうか、学校と保護者はパートナーであり、敵対することには、なんのメリットもない。
【響いた抜粋と学び】
今回の著者は”共同通信大阪社会部”です。ここは1945年に創立され、国内・海外のニュースを取材・編集して全国の新聞社や放送局、海外メディアに配信しています。地元大阪だけでなく近畿・中国・四国痴呆の広い範囲を各地の支局とともにカバーしています。
プロレスごっこ……ある教育学者は「低温やけどみたいに、慣れっこになっていくうちに、気がついたら深く細胞まで侵されていて、あとは一生治らない、というのと同じような現象だ」と指摘する。
これは僕の中学校でも似たようなことがありました。当時、僕は中学一年生。廊下で友人と歩いていたら、友人二人がいて、そのうちの一人が蹴られていました。
「痛いって!!」
と彼は痛がっていました。ちょうどそこに教頭先生が通って、
「何をしているんだ!?」
と聞かれたところ、蹴っていた友人は教頭先生に
「レスリングの練習をしているんです!」
とはっきりと答えていました。その回答に僕と友人は大笑いをしていました。
しかし、それから、蹴られていた友人は学校を休むようになったのです。僕は当時、レスリングの練習が不登校の原因だったとは思っていませんでしたし、今でもその証拠はありません。
ただ、この抜粋を読んだ時に、本当はあの友人は苦しんでいたんじゃないのか? ということです。
いじめている子どもに罪の意識なんてない、ということです、子どものときは、だれだってほかの子をからかって遊ぶことがあります、どんないじめをしていた子も『おもしろかった。遊びのつもりだった』と言います、それは子どもの本心だと思います、遊びだ、楽しいと思えば行為はエスカレートしていく、それがいじめの怖さです」。
これはそのとおりだと思います。本心で相手をいじめて困らせている、なんて思っていないと思います。
4歳の次男と一緒に遊びにいって思いますが、子どもは自分が、自分が! です。
※ もちろん、本心は大人もですが……。
「パパ、見て!!」
とすべりだいをすべり、ブランコに乗って、走り回る。すべて自分を見て欲しいわけです。それが子供です。
そんな子共が相手の心を分かってあげるなんて、高等技術を持てるなんて……普通に考えたらありえないわけです。だって、大人ですら、親ですら自分の子共の気持ちを汲み取るなんて難しいんですよ。赤の他人ができるのが当たり前なんてありえないでしょ。
楽しいか楽しくないか、が先にあって、相手の子がどう思うか、という理屈は繰り返し何度も伝えなければわからないのです。
「いじめを許さない学校」を掲げると、先生はだれも自分のクラスで起きていることを言い出せなくなる、「そんなばからしいことを言わないでもらいたい。いじめが仮に起きたとしても、先生のチームワークや生徒たちの力で、深刻化する前に止められる『いじめを包み込める学校』でありたい。
マザー・テレサも「戦争をなくすための会合」には絶対参加しなかったといいます。「どうすれば平和になるのか」という話し合いならば、参加したそうです。
戦争をなくす≠平和にする、ということです。一見すると同じような意味に思えるかもしれませんが、アプローチが変わります。
戦争をなくす、ということは武装解除する、という方法もあれば、敵対する相手を叩き潰す、というアプローチもあります。しかし、どうすれば平和になるのか? という考えからスタートすると、相手を叩き潰すというアプローチはなくなります。
我が家でも兄弟喧嘩があるときには
「どうすれば喧嘩をしないようにできるか」
ではなくて、
「どうすれば仲良くできるか?」
からスタートしています。
※ 「喧嘩をしないように」からスタートすると、相手が悪いんだから相手を黙らせればいい、相手をやっつければいい、というところまで発展する可能性があるからです。
「いじめをしない、させない、見逃さない、許さない学校」とも謳っていた、いじめが起きた際の迅速な対応につなげるための詳細なマニュアルもきちんと備えていた。
大津中にはこのような手順はしっかりあったのに、結局は机上の空論だったわけです。しかし、これは割ごとでもなんでもありません。どの業界でも、どの会社でも、これはありえることです。
マニュアルを完備するのは確かに必要ですが、それを実践する”人”がいてこそなんですね。
さらに言うと、その完備したマニュアルを使いこなせる状態なのかどうか、というのも重要ですね。
「おじいちゃんおばあちゃん本当にごめんなさい。どろぼうといっしょのことをしたのはわかっている。でも、俺にはわるい友達は一人もいない。それだけは、分かってほしい」。
これが自殺した少年の本心だったのかな、と思っています。最後まで友人を信じていたのだろうか?
それともか、モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない
のようにいじめっ子といじめられっ子は表裏一体の関係で切りたくても切れない関係だったのかな、なんていうことも思いました。
自分がいじめられている、と認められず、だとしたら、いじめている人のことも悪い人じゃない、と思っていたのかもしれない……。
色々な感情が交錯して胸が締め付けられそうでした。
もっともっと、気になった抜粋から書評を書きたいんですが、とりとめがなくなっていくので、このあたり閉じたいと思います。
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